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敗戦の日。終戦の日。
8月15日は「終戦の日」というべきか、
それとも「敗戦の日」かという議論が、
昔はよくあった。今はどうだろう?

ぼくは、信頼していた教師から、
「あの戦争は日本軍の『敗戦』によって
ようやく終わったのだ」と教わって、
どうもそれが正しいようだと思って来た。

だから、毎年8月15日に、
「終戦の日」とか「終戦記念日」と聞くたび、
ちょっとした違和感を感じる。

第二次世界大戦、あるいは太平洋戦争が、
一体どんな戦争だったのか、
学校で学んだこと、祖父から聞いたこと、
そのほかいろんなメディアを通じて見聞きしたことから、
歴史の知識として、知ってるつもりでいる。

しかしながら、すでに新学習指導要領によれば、
世界史は必須でも日本史近現代史は必須ではない。
そんな時代である。

政府や官僚の決めごとをどうこう言うのは、
もういい加減にバカバカしく、
時間の無駄なので、なにひとつ語りたくない。

ただ、なぜ「敗戦の日」ではなく、
8月15日を「終戦の日」や「終戦記念日」と
呼ぶことのほうが日常的で、一般的なのか、
ちょっとした疑問を持つ感覚だけは生かしておきたい。

ぼく自身の言葉の感覚からすると、
「終戦」には「開戦」の対語があって、
太平洋戦争に関して言えば、「開戦」は、
日本軍による真珠湾攻撃の日であろうことには、
戦争当事者双方が認めうる客観性がある。

けれども、「終戦」についてはどうか。

中学校までに習った歴史の知識だけでも、
ミズーリ号での調印がなされた日こそ、
戦争当時者双方にとって客観的な「終戦の日」であろう、
という考えが湧く。

それでも多くの日本人は、
8月15日を「終戦の日」として認知している。

誰かがそう決めたからということ以上に、
「終戦の日」としてしっくりくる理由があるのだ。
「それはミズーリ号での調印の日じゃね?」という
ツッコミを許さないしっくり感が。

天皇の玉音放送を通じて、
国民に敗戦を知らしめたことはもちろん、
ふたつの原爆忌に近いこと、
そしてもうひとつ、
この蒸し暑いお盆の時期にあることが、
そのしっくり感の理由ではないかと思う。

死者を思う季節。
暑さで思考の鋭さを損なう季節。
負けたのではなく、終わったと記憶するのにふさわしい。

負けたと思えば、
なぜ負けた、誰が負けた、誰に負けた、なぜ戦ったと、
思考が始まる。

けれども終わったと思えば、
終わってよかった、という溜息が残る。
そしていつのまにか「記念日」にさえなる。

言葉を口にすることは、
その事実を受け入れることだ。

「敗戦の日」か「終戦の日」か。
また来年も考える。

| - | 11:34 PM | comments (5) | trackback (x) |
晴れろ、夜だけ!
今晩、明晩、ペルセウス座流星群。

もしも晴れて、
落ちてくる星屑を眺めることができるなら、
うってつけの夜になる。

週末の晩に。暑さしのぎに。

そうそう、あとは蚊取り線香があれば。

でもどうかなあ。
この湿気だと、空は澄んではくれないか。

ペルセウス…。

ダナエが産んだ、ゼウスの子。
メデューサを退治した、アンドロメダの夫。
あやまって祖父を殺した、アルゴスの王。

物語に満ちた、数奇な生涯よのう。

| - | 09:19 AM | comments (2) | trackback (x) |
広島原爆忌。
亡くなった人が浮かばれるということは、
生きてる世界が変わり続けるということだと、
どこかの宗教家が言ってたのに共感する。

きょうは、そんなことを想う日だから、
広島市長による「平和宣言」を転載。

66年前、あの時を迎えるまで、
戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに生活していました。
かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の地にも、
多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。

当時13歳だった男性は、打ち明けます。――
「8月5日は、中学2年生の私にとっては
久しぶりに一日ゆっくり休める日曜日でした。
仲良しだった同級生を誘って、
近くの川で時間の経つのも忘れて夕方まで、
砂場でたわむれ、泳いだのですが、
真夏の暑いその日が彼との出会いの最後だったのです。」
ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、
一発の原子爆弾でそれまでの生活が
根底から破壊されてしまいます。

当時16歳だった女性の言葉です。――
「体重40キロの私の体は、
爆風に7メートル吹き飛ばされ意識を失った。
意識が戻ったとき、辺りは真っ暗で、
音の無い、静かな世界に、私一人、
この世に取り残されたように思った。
私は、腰のところにボロ布をまとっているだけの裸体で、
左腕の皮膚が5センチ間隔で破れクルクルッと巻いていた。
右腕は白っぽくなっていた。
顔に手をやると、右頬はガサガサしていて、
左頬はねっとりしていた。」

原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、
人々は、とまどい、傷つきながらも
お互いに助け合おうとしました。――

「突然、『助けて!』『おかあちゃん助けて!』
泣き叫ぶたくさんの声が聞こえてきた。
私は近くから聞こえる声に『助けてあげる』と呼びかけ、
その方へ歩み寄ろうとしたが、
体が重く、何とか動いて一人の幼い子供を助けた。
両手の皮膚が無い私は、もう助けることはできない。
…『ごめんなさい』…。」

それは、この平和記念公園の地のみならず、
広島のいたるところに見られた情景です。
助けようにも助けられなかった、あるいは、
身内で自分一人だけ生き残ったことへの罪の意識を
いまだに持ち続けている人も少なくありません。

被爆者は、様々な体験を通じて、
原爆で犠牲となった方々の声や思いを胸に、
核兵器のない世界を願い、
毎日を懸命に生き抜いてきました。そして、
被爆者をはじめとする広島市民は、
国内外から心温まる多くの支援を受け、
この街を蘇らせました。

その被爆者は、平均年齢77歳を超えながらも、
今もって、街を蘇生させた力を振り絞り、
核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けています。

このままで良いのでしょうか。
決してそうではありません。今こそ私たちが、
すべての被爆者からその体験や平和への思いをしっかり学び、
次世代に、そして世界に伝えていかなければなりません。

私は、この平和宣言により、
被爆者の体験や平和への思いを、
この世界に生きる一人一人に伝えたいと考えています。
そして、人々が集まる世界の都市が
2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、
長崎市とともに平和市長会議の輪を広げることに力を注ぎます。

さらに、各国、とりわけ臨界前核実験などを繰り返す米国を含め
すべての核保有国には、
核兵器廃絶に向けた取組を強力に進めてほしいのです。

そのため、世界の為政者たちが広島の地に集い
核不拡散体制を議論するための国際会議の開催を目指します。

今年3月11日に東日本大震災が発生しました。
その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、
とても心を痛めています。
震災により亡くなられた多くの方々の御冥福を心からお祈りします。

そして、広島は、一日も早い復興を願い、
被災地の皆さんを応援しています。

また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、
今なお続いている放射線の脅威は、
被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、
原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。

そして、「核と人類は共存できない」との思いから
脱原発を主張する人々、あるいは、
原子力管理の一層の厳格化とともに、
再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。

日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、
国民の理解と信頼を得られるよう
早急にエネルギー政策を見直し、
具体的な対応策を講じていくべきです。

また、被爆者の高齢化は年々進んでいます。
日本政府には、「黒い雨降雨地域」を
早期に拡大するとともに、国の内外を問わず、
きめ細かく温かい援護策を充実するよう強く求めます。

私たちは、原爆犠牲者の御霊に
心から哀悼の誠を捧げるとともに、
「原爆は二度とごめんだ」、
「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という思いを新たにし、
核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に
全力を尽くすことを、ここに誓います。

平成23年(2011年)8月6日
広島市長 松井 一實

| - | 12:21 PM | comments (5) | trackback (x) |
牡鹿郡女川町。
石巻港からクルマで40分…
震災前までは20分ほど東に走ると牡鹿郡女川町に入る。
通過する万石浦の自然はなんとも静やかで、
心癒される東北の風景に思えた。
震災で傷んだ道のガタつきさえなければ。

県道を抜けると、
緑のカーテンが開かれるように、
前方に典型的なリアス式海岸の入り江が現れる。

遠くに南北からせめぎあう緑の小山が
海への出入口を狭めていて、
大きな池のような港。
風光明媚で穏やかな良港をつくっていた、はず。

しかしそこは、石巻港にも増して激烈に、
津波によって破壊されてしまった。
窪地にできた港町が丸ごと潰された。
さながら爆心地だ。

町立病院の駐車場から見渡す港町のパノラマに、
足がすくんだ。

震災直後、
その狭い海から20メートルを超す津波が
襲いかかって来たという。

堤防を超えた津波が陸地に迫り来るとき、
巨大な水の壁が丘を越えて突き進んだ。

根こそぎ倒された建物がいくつもある。
鉄筋の入った建造物の底面を、ぼくは初めて見た。

つぎに気づくのは、
そうした建物が、あらゆる方向に倒れていることだ。

つまり、津波は女川町の高台の壁に当たって
方向を変え、港町を獣神のように荒れ狂った。

今、避難所となっている女川町立病院は、
港を望む高台にある。
低地の6階以上に相当する駐車場の手すりは、
地震と津波で流されていた。
病院の1階が浸水し、多くの医療機能を失った。

女川町に津波の歴史があったかどうかは知らない。
けれど、穏やかな海がそんな高台まで隆起してくることなど、
2011年3月11日、一体誰が想像しただろう。

南東の山を越えたところには、
女川原子力発電所がある。
原発への道筋を示す青い道路標識が倒され、
紙っぺらのようにくしゃくしゃになって、
瓦礫のなかにあった。
すぐ近くに、ぬいぐるみや、バレーボール、
茶碗の破片が一緒にあった。

骸骨になった建物の4階には、
腹を空にむけた白いセダンが乗ったまま。

海沿いには、白い円柱のタンクが転がっている。
津波が押し寄せた方向が想像できない向きに倒れて…。

ここでも、自衛隊災害支援の自衛官が、
瓦礫撤去を行っている。
おかげで、ほとんどの道は通行できるようになっている。
津波以前の区画がはっきりわかる。
そのぶん、ひとつひとつの倒壊建造物が、
カタストロフの展示物のように残された。
つぶさに見ていると呼吸を忘れる。

なぜこんなことが。
これが地球の自然なのか。
だとしたら、自然という言葉の理解があまりにも足りなかった。
あるいは、これも神様の引き起こしたことなのか。
命には意味があるんじゃないのか。なぜ無為に奪った。
むごすぎる。とても人間が立ち向かえる力じゃない。
あの日、助けを呼ぶ悲鳴がどれだけ波に飲み込まれたことか。
神様がいるとしたら、狂ってる。

生鮮市場のすぐ脇は、
生ゴミの入った袋に頭を突っ込んだような腐敗臭がした。

50メートル先では、若い夫婦が、
瓦礫のなかで姿勢を低くして探し物をしていた。

高台の駐車場には
ユニセフのウインドブレイカーを着たアグネスチャンが訪れ、
外国人たちと一緒に避難所に入っていくところだった。

駐車場には誘導する人がいたけれど、
きっと被災した町民のかただろうと思う。

生きていかなければ。

天気は良かった。

| - | 01:43 PM | comments (1) | trackback (x) |
石巻、日和山公園から。
石巻港を一望できる日和山公園展望台には、
何カ所かに花が供えられていて、
訪れる人がそこから海沿いへ向かって手を合わせていた。

眼下には、日本有数の水産拠点だった、
石巻市門脇地区。
先の津波で丸ごと飲み込まれた。

亡くなった人の9割は津波による溺死。
あの日から3カ月後の風景は、
コンクリート造の建物が点在しているものの、
瓦礫、更地、瓦礫、瓦礫、瓦礫…。
広大な廃墟と化した。
石巻の人々の財産だったものなのに。
そこにはもはや、ボランティアの出番はない。

地盤沈下と、前日来の雨による冠水。
その脇で乾き始めたヘドロと埃。
うす煙とともに、目に見えるような臭気。

道路を覆っていたアスファルトは多くが剥がされ、
クルマはガタガタ弾みながら低スピードで行き交う。

交通整理の警官がマスクの下で鳴らす警笛と、
災害支援隊の自衛官が指揮する重機の音。

あるはずの船や加工会社のトラックは消え去り、
横倒しになったタンクが
瓦礫の大ボスのように寝転がっている。
小高い丘にある墓地には
ひしゃげた乗用車が突っ込んだまま。

あのタンクは震災で炎上し、
津波によって流され、
陸側の立派な庁舎にぶつかって大火災を起したそうだ。
生活の場が、地震と津波で修羅場となり、
今、国破れた姿をさらしている。

そんな光景もしばらく見ていると、
おそろしいことに、
ある種の慣れを生んでいくことに気づいた。
異常な出来事を目前にして酔いかけながら、
言葉はなにも出なかったし、感情も立ち上がらない。

日和山公園の東には北上川が流れを取り戻し、
真っ白な石ノ森萬画館がなんとか無事に
残っているように見えた。
そこから石巻駅にいたる市街地は、
災害を免れた家屋に人がもどったり、
がんばって開けている店もある。
日和山の下にある学校では運動会が行われていた。

じつは、大勢の子どもたちが津波に飲まれた
あの大川小学校もほど近い。
海の見えない地域を津波はどんなふうに襲ったのか。
あの日は石巻のすべての人たちの足下に、
生と死の境があったのだ。

瓦礫の撤去も、復興も急がなければならない。
ボランティアの活動も、勢いをなくしてはならない。
行政は、命をとりとめた人たちを、
一日も早く日常に帰さなければいけない。

その一方で、亡くなった魂をいかに鎮めるか。
荒ぶる自然をいかに鎮めるか。
政治や科学がたどりつけない知恵も、
生活圏の建て直しには必要なのではないかと思った。

2011年3月11日に
多くの人の逃げ場となったであろう日和山公園には、
芭蕉と曾良の「奥の細道紀行三百年」の記念碑がある。
石碑は土台から大きくずれていたが、
倒壊せずに辛うじて立っていた。

いまなら、この「奥の細道」を、
芭蕉はどんなふうに詠むんだろう。
枯れ野にしてはおけない。
想像しても、想像しても、まだ、言葉は浮かばない。

| - | 02:21 PM | comments (0) | trackback (x) |
石巻市新館にて。
生まれてはじめての、側溝のヘドロ運び。

側溝のふたを開け、ヘドロをかき出し、
乾いた土に混ぜて、土嚢に詰めて、
ダンプに乗せる。

震災による津波被害から3カ月、
北上川河口に位置する石巻の港からは、
船も水産加工場も倉庫も消えたまま。
そして、家並みも、人も。

体力を消耗しきって帰途につく前、
港にほど近い「上釜ふれあい広場」に立ち寄った。
そこには土葬された遺体が埋められている。

塔婆が数本立っていたけれど、
ほとんどの遺体には三桁の番号がふられているだけ。

広場のまわりには人が住める家は残っていない。
海水を浴びて赤茶けた木々と、ただ重機の音。

ヘドロと腐った動物が放つ強い臭気を風が運ぶ。
ダンプやトラックが土煙を上げて往来する。

石巻インターからすぐの新館地区では、
ほんの100メートル、いや30メートルで、
被災の様子がまったく異なる。
全壊家屋もあれば、
水没はしたものの形は残った家が混在する。

電気はまだ通じないところが多い。
水道は比較的早く復旧したそうだ。
しかし、津波が運んだヘドロによって、
排水経路が埋まってしまっている。

水が流れない、悪臭が漂う、蠅や雑菌が繁殖する。

街の先行きについて、
行政の判断がなされていないため、
どうやって手をつけていいか迷っているという。

これでもかなり片づいたんですよという説明を受けるその前方に、
まるで空爆後の焼け野原のような光景。

家を片付けたい住民から要請があると、
ボランティアが泥出しを手伝ったり、
側溝を掃除する。極めつけの3K作業。

作業が済めば住民から感謝される。
ただ、その労働が地域の復旧にどれだけ貢献できているか、
じつはよくわからない。

全体を思うと、
なんのためにやってるんだろうと思ってしまう。
そりゃあたしかに、
目の前の被災者の手足になっているのだけれど。
Aさんのお宅のまわりのドブをさらい、
あしたはBさんのお宅のまわりを…

だけど…
大もとを塞いでいるヘドロをかき出さなければ、
下水機能は根本的な解決にならない。

ボランティア組織にはまだ、
バキュームカーで根こそぎヘドロを吸い取る力はない。

いまのペースのままで進めたとして、
この地域の泥出しだけで、あと2年かかるという。
しかし、暑くなれば作業環境は悪化する。
人手もすでに減りつつある。

行政の判断、復興の道筋、
不足しているトラックやダンプの支援、労働力…
暑さによる作業の困難さ、衛生状態の悪化…
石巻港近くの未来予想図は、
まだまったく描かれていないように思う。

それでも、土埃の舞うガタガタの歩道を、
学校へむかう子どもたちが歩いている。
希望の歩み。

ボランティアのサテライトに、
被災者に違いないおばあちゃんから煮物の差し入れが届く。
おいしかった。ほんとうにおいしかった。

がんばっぺ、石巻。

| - | 06:36 PM | comments (0) | trackback (x) |
日本国憲法序文より。
We, the japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth.
We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは,平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


われらの国の憲法には、
素晴らしい理想が綴られていると思います。(記念日に)

| - | 08:28 PM | comments (9) | trackback (x) |

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